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イタリアの「駄作機」とエースたち:第三話 ―「最悪の欠陥機」Ba.88とドッリオ大尉、世界記録への挑戦―

『「駄作機」とエース』シリーズも第三話。今回は、皆さんお待ちかね、第二次世界大戦時、最悪の欠陥機」とも言われたレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機と、この機体のテストパイロットを担当し、Ba.88で通算6個の世界記録を達成した名パイロット、フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio, 正しい発音はフリオ・ニクロ・ドーリョであるが、慣例的にドッリオと呼ばれているためこちらを採用)を紹介する。

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レダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機と、フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)

ドッリオはテストパイロットとして通算9個の世界記録を達成し、第二次世界大戦時には戦闘機エースとしても活躍した、イタリア空軍でも特に特筆すべき功績を残したパイロットと言える人物だ。『ストライクウィッチーズ』に登場するフェデリカ・N・ドッリオ(Federica N Doglio)少佐のモデルになった、ということで知っている人もいるだろう。そんな彼が6個の世界記録を達成した機体が、Ba.88だったのだ。

 

レダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機

  With フリオ・ニクロ・ドッリオ

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レダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機

イタリア最大の失敗機」と揶揄されたレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機とは、いかなる機体であったのか?Ba.88はレダ社が開発・生産した戦闘爆撃機で、以前紹介したBa.65と同様に、アントニオ・パラーノ(Antonio Parano)及びジュゼッペ・パンツェーリ(Giuseppe Panzeri)の両技師によって設計されている。高速重戦闘機を目指して作られたBa.88は、空気抵抗を抑えるスタイリッシュで洗練された流線型の胴体を持った。武装は前方に12.7mm機銃×3、後方に7.7mm旋回式機銃が設けられた。爆弾は最大で1000kg、つまりは1トンもの爆弾を搭載可能であった。愛称の「リンチェ(Lince)」はヤマネコの意味であったが、非公式の愛称だったようだ。

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フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)

この期待の新型機のテストパイロットとなったのが、フリオ・ニクロ・ドッリオ(フリオ・ニクロ・ドーリョ)だった。彼はその優秀さからブレダ社の主席テストパイロットとして引き抜きを受けた人物で、ブレダ社に入社する前はCNA社でテストパイロットを務めていた。彼はCNA社で3個の世界記録を既に達成していたのだ。

具体的には、

記録1個目(1932年12月28日)水上機仕様のFIAT AS.1(CNA社のエンジンを搭載していた機体)で、上空7362mの高度を記録。これは水上機部門での高度の世界記録を塗り替えるもので、ドッリオにとっての初めての世界記録の達成でもあった。

記録2個目(1933年11月6日):CNA エタ水上機仕様で高度8411mを記録し、自らの世界記録を塗り替えている。

記録3個目(1933年12月24日):CNA エタ軽飛行機で高度10008mにまで達し、これによって軽飛行機部門の高度世界記録を達成した。

これらの成功によって、ドッリオはブレダ社の目に留まり、レダ社の主席テストパイロットとして引き抜きを受けたのである。

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飛行するBa.88

こうして、ブレダ社に移籍したドッリオは新型機Ba.88のテストパイロットを務めることとなった。ここで、ドッリオは「一つの伝説」となった。ドッリオがBa.88で達成した世界記録を下にまとめてみよう。

記録1個目(1937年4月1日):Ba.88によって距離100kmの世界速度記録を塗り替えた。平均時速517.836km/hで、今までの世界記録を大きく上回った。

記録2個目(1937年4月10日):同じくBa.88によって距離1000kmの世界速度記録も塗り替えた(平均時速475.518 km/h)。先の記録達成から僅か9日程度しか経っていない。

記録3個目(1937年12月5日):Ba.88にピアッジオ社製の新型エンジンを取り付けた試作機で、距離100kmで平均時速554.375km/hを記録、再びその自らの記録を塗り替えた。

記録4個目5個目6個目(1937年12月9日):Ba.88に1000kgの武装を装備して飛行し、平均時速524.19km/hを達成した。これにより、1日で三つの世界記録を達成するという快挙を成し遂げている。1つ目は500kgの重量を加えて距離1000kmの世界速度記録を更新、2つ目は1000kgの重量を加えて距離1000kmの世界速度記録を更新、3つ目はそもそも距離1000kmの世界速度記録さえも更新していた。

4個目、5個目、6個目に至っては1日のうちに3個の世界記録を達成してしまっている。合わせて通算9個の世界記録(CNA社3個、ブレダ社6個)を達成したドッリオはこれによって一躍時の人となり、海外の航空技術者からも注目された。国際航空連盟からはルイ・ブレリオ・メダルを贈られており、更にこの功績からドッリオは空軍から銀勲章を叙勲されたのであった。Ba.88もこの結果から日本や英国を始め、各国で高く評価され、英国では「イタリアで最も優れた戦闘機」と評価されている。しかし、これは後に最大の皮肉となる結果となった。

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レダ Ba.88

ドッリオが数々の世界記録を達成できたのは本人の操縦能力の高さもあったが、機体性能も優秀だったからである。そう、Ba.88も試作型(プロトタイプ)は優れた性能を持っていたのだ。この一連の世界記録樹立を見たイタリア空軍は、この結果に非常に満足して重戦闘機として量産を命じた。しかし、ここで悲劇が起こったのである。

試験飛行で優れた結果を示したBa.88であったが、武装を装備するとその速度は著しく低下。また飛行中は非常に不安定となり、操縦性も悪化してしまったのである。こうして、高速重戦闘機として開発されたBa.88は、戦闘機としての運用に耐えられないとして、地上攻撃を主任務とする戦闘爆撃機として運用されることになったのである。

第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、まずBa.88はフランスとの戦いで使用された。前回紹介したジャンピエロ・クレスピ(Giampiero Crespi)も、大戦序盤ではBa.88を駆り、サルデーニャからコルシカ島爆撃を実行している。対フランス戦は短期間で終わったためにBa.88の欠陥がそこまで強調されなかったが(何だかんだコルシカ島諸都市への爆撃は成功した)、続く北アフリカ戦線でそれは明らかとなった。なお、テストパイロットであるドッリオ自身は大戦の実戦部隊においてはBa.88には乗っていない

北アフリカ戦線に送られたBa.88であったが、砂漠の砂の影響で防塵フィルターを使わなければならず、その結果ただでさえ悪い飛行性能が更に悪化十分な高度や速度が取れずに水平飛行すら満足に出来ず、挙句の果てには重量が重く、離陸すら出来ない機体まで出てきてしまった。そのため、燃料をギリギリまで減らす、後部機銃を撤去して一人だけで飛ぶ、爆弾を少なくするなど、様々な努力で軽量化が図られたものの、結果としてあまり改善されなかった。

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レダ Ba.88

更には、デリケートな機体であったためにメンテナンス性も悪く砂漠の戦場では不調が多発稼働率は一気に落ち込む結果となった。こうして、高速重戦闘機期待のホープとして開発された機体は、試験飛行で素晴らしい結果を残したものの、戦場ではそれと対照的に「イタリア最大の欠陥機」とも言える最大の失敗を目に見える形で見せてしまったのであった。

当然、水平飛行すら満足に出来ない機体が、砂漠の戦場で戦果を挙げられるはずもなかった。その結果、辛うじて出撃した機体も易々と撃墜された。その結果、対地攻撃にも使われないという悲惨な結果となり、北アフリカ戦線での経験はいくつかの迎撃任務偵察任務のみで、1940年のうちにBa.88の運用は終了した。その後、生き残ったBa.88は武装を解除され、所謂「フクロウの飛行機(aereo civetta)」として飛行場に設置、敵機による爆撃時のオトリとして「有効活用」されたのであった

結局、この機体が役に立ったのはオトリとしてのみであったのである。試験飛行では世界記録を6個達成し、優れた機体として期待されていたものの、戦場では役立たず(欠陥機でも、大抵は後方での運用やら「パイロットの腕」で欠点を補正して活躍したりで、何だかんだ何かしら役にたつものだが、Ba.88に至ってはオトリにしかならなかった)という悲惨な結果に終わった。しかも、高速重戦闘機として開発されたのに、武装を装備すると飛行性能が劣悪になり、速度も低下、戦闘機として使えない...とまでなると、もはやどうしようもない、完全な欠陥機と言えるだろう。

 

さてさて、今回の『「駄作機」とエース』はここまでであります。

それでは次回お会いしましょう!

次回はエリオ・スカルピーニ軍曹とサヴォイアマルケッティ SM.86急降下爆撃機について書こうと思っています。

『「駄作機」とエース』シリーズ

第一話↓

associazione.hatenablog.com

 第二話↓

associazione.hatenablog.com

第四話↓ 

associazione.hatenablog.com

 第五話↓

associazione.hatenablog.com

 

 ◆主要参考文献

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

・David Mondey著, The Hamlyn Concise Guide to Axis Aircraft of World War II, Book Sales, 2002

・Giovanni Massimello著, Furio Niclot Doglio : Un Pilota Indimenticable,Giorgio Apostolo Editore, 1998

・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004

・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

・Giovanni Massimello, Giorgio Apostolo著, Gli assi italiani della seconda guerra mondiale, LEG Edizioni, 2012

・Giuseppe Ciampaglia著, Destroyers. I distruttori nella seconda guerra mondiale, IBN, 1996

・Aeronautica Militare -Breda Ba.88-
http://www.aeronautica.difesa.it/mezzi/mstorici/Pagine/BREDA-BA%2088.aspx