Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

第二次世界大戦時のイタリア主要都市への空襲について

f:id:italianoluciano212:20210324101540p:plain

第二次世界大戦時のイタリア本土への主な空襲。

第二次世界大戦時、イタリアはドイツや日本と共に枢軸国の主要交戦国の一つである。しかしながら、ドイツ本土や日本本土への空襲被害とは異なり、イタリア本土の空襲被害が顧みられることはあまりないと言える。トニー・ジャットの『ヨーロッパ戦後史』にも誤った記述が見られ(ローマは爆撃されていないといった記述など)、「イタリアはあまり爆撃されていない」と思われがちだ。まぁ、トニー・ジャットの著作に誤りが多いのは今に始まった話ではないが...

当然ながら、第二次世界大戦時にイタリアは主要交戦国故に本土に激しい爆撃を受けている。本土戦と共に、その被害により多くの建物が破壊されたが、現在の日本では旧同盟国であるにもかかわらず、その記憶は共有されていない。その理由としてはイタリアには古い建造物がそのまま残っているように「見える」というのもあるだろうが、これは他の国々と同様に、戦後の人々による絶え間ない努力によって修復されたものである。ローマにしろ、フィレンツェにしろ、ヴェネツィアにしろ、イタリアの歴史的な都市は爆撃の被害に遭っている。当然ながら、戦火によって完全に失われた歴史的な建造物や遺物も多い(ネミ湖のカリグラの船なんかは代表的だろう)。

また、1943年にイタリアが「降伏」して戦争から離脱したと思われがちなのがその理由の一つともいえるが、1943年以降もイタリアは南北に分裂して北部は枢軸国側のイタリア社会共和国(RSI政権)、南部は連合国(共同交戦国)側のイタリア王国政府(バドリオ政権)、更にパルチザンを交えた内戦状態が行われ、それと同時に連合軍側によるイタリア本土侵攻と本土諸都市への激しい爆撃は継続された。寧ろ、内戦の混乱でイタリア本土の防空システムが欠如したことによって、連合軍側はイタリア本土への容赦ない爆撃を敢行できたと言える。なお、イタリア本土への空襲は、ドイツ本土への空襲同様に、英国による「復讐」といった意味合いも強かった(例えば、ローマへの空襲に関しても、アメリカでは難色が示されたのに対し、英国側はこれを推進した)。

f:id:italianoluciano212:20210908145535p:plain

第二次世界大戦時、枢軸三か国に連合国が空襲した爆弾の総量。ドイツが圧倒的に多いが、イタリアも日本の二倍ほど落とされている。

今回はイタリアの主要都市を中心に第二次世界大戦時のイタリア本土への空襲を少しまとめてみた。全体としては、意外にも都市への被害(人的被害・建造物の被害共に)は南部の諸都市への空襲の方が多いように感じた。特に、アドリア海沿いの諸都市...すなわち、第二次世界大戦終盤になってイタリア本土戦が展開されるようになった頃から爆撃されるようになった町の被害が、短期間の爆撃ながら被害がとても多いという事がわかった(イタリア本土の制空権が奪われるまでは連合軍機は作戦範囲的にアドリア海側の諸都市を空爆することは出来なかった)。

ミラノ、トリノジェノヴァを中心とする北部の工業都市や、ナポリパレルモと言った南部の大都市は第二次世界大戦初期から連合軍機の作戦範囲の中にあったため爆撃を受けていたが、大戦終盤になるまではイタリアの防空システムは生きているため被害は少なかった。イタリア本土戦、すなわち内戦が開始されるとイタリア本土の防空を担ったイタリア社会共和国(RSI)空軍は基本的に北部の工業都市の防空任務についた。このため、北部の諸都市の爆撃被害は「切り棄てられた諸都市」に比べて数値上は少ない、と言えるかもしれない。とはいえ、連合軍の重点的な爆撃目標になったことは確かである。

また、今回は取り上げないが、都市への被害だけで考えると、主要都市への戦略爆撃よりも、本土戦の戦場となった都市への戦術爆撃の方が被害は大きい。例としては、トスカーナポルト・サント・ステーファノ(都市の96%が完全に破壊された)や、モンテ・カッシーノの戦いで知られるカッシーノなどがあげられる。また、現在はイタリア領ではないが、敗戦によってユーゴスラヴィア領に編入されたザラ(現クロアチア領ザダル)なんかも爆撃によって多くの被害に遭った。植民地の諸都市も同様である。

 

■ローマ空襲

イタリアの首都であるローマは教皇庁や古代の歴史遺産があることから、政府や軍首脳部は爆撃対象になると考えていなかったムッソリーニはこれらを「比類なき高射砲」と表現していたが、自らは密かに首相官邸であるヴィッラ・トルローニアに空襲シェルターを作っておくなど準備は行っていた。

しかし、1943年7月19日にドゥーリットル飛行隊によるローマ市内への史上初の大規模爆撃が行われ、死傷者2千人を超す被害を受け、それ以降、1944年6月5日にローマが連合軍に制圧されるまで計4万人程度(死者約3千人)の市民に死傷者を出した。初空襲ではカラビニエーリ長官のアツォリーノ・アーゾン将軍が戦死する等、軍高官にも戦死者が出ていた。また、この爆撃によって史上初のローマへの空襲が行われたことで、政権は動揺し、ファシスト政権の崩壊に繋がったともいえる。休戦後はローマはRSI政権の支配下に置かれたため、引き続き連合軍機の爆撃を受けた。

なお、防空システムによって、連合軍側も大きな被害を受けており、幾度も行われたローマ空襲時には約600機の連合軍爆撃機が撃墜され、3千人以上の乗員が戦死している。

 

■ミラノ空襲
ミラノはイタリア北部で最も空襲の被害を受けた都市である。トリノジェノヴァと共にイタリアの主要工業地帯を構成し、休戦後もRSI政権の政治的中心地であったミラノは、大戦初期から終戦まで連合軍による苛烈な爆撃を受けた。都市の1/3が完全に破壊され、40万人が家を失った空襲による死者数は少なくとも2千2百人と言われる。数々の文化遺産も大きな打撃を受けた(例えば、ガッレリアが空襲で粉砕された)。

 

ナポリ空襲
ナポリはイタリア南部で最も空襲の被害を受けた都市だった。重要な港湾/海軍基地が存在し、南部の工業の中心地であったことにより、大戦初期から爆撃の対象となった。1943年10月にナポリが連合軍に制圧されるまで約2百回の空襲を受け、死者数は2万5千人にも上っており、伊主要都市の空襲犠牲者の死者数で最も多い。なお、陥落後は悲惨なことにドイツ軍からの爆撃も受けている。

 

トリノ空襲
トリノはイタリアの工業生産の中心地であったため、大戦初期からイタリア戦線が収束する1945年4月末まで連合軍による激しい空襲に苦しんだ都市全体の約40%が全壊し、2千人以上の民間人が死亡した。特にFIAT社の工場が存在したリンゴット地区は最も爆撃された地区であり、終戦時には全建造物の70%が全壊の状態だった。

 

ジェノヴァ空襲
ジェノヴァトリノ・ミラノと共に「北イタリアの工業三角地帯」を構成する都市であり、イタリア最大の港湾都市であることから、大戦序盤から連合軍側の爆撃対象となった。戦局が連合軍有利になった1942年終盤からは絨毯爆撃も実行されるようになり、終戦時には工業地帯の3/4が破壊される被害を受けた。また、文化遺産への被害も深刻で70の教会と130の歴史的建築が破壊されている。民間人の死者は約2千人

 

ボローニャ空襲
ボローニャ戦争当初は連合軍機の作戦範囲外であったことから爆撃対象にならなかったが、北アフリカ陥落後は交通の要衝であったために連合軍側による爆撃を受けるようになった。1945年4月まで連合軍によって激しい爆撃を受け、2481人の民間人が死亡、2074人が負傷した。この犠牲者数は第二次世界大戦時の空襲における犠牲者としては北イタリアで最も多い都市の約半分近くの建物が破壊され、歴史的な大学地区も大きな被害を受けた。

 

パレルモ空襲
シチリア島の中心都市であるパレルモ大戦初期から爆撃の対象になり、大戦期を通じてナポリに次いで空襲の被害を被った都市だった。1942年まではイタリア側の防空体制によって被害は最小限に抑えられていたが、1943年初頭に北アフリカが陥落すると連合軍による重点的な爆撃対象となり、パレルモ陥落までに10万戸以上の家屋が被害を受け、2千人以上の市民が死亡した。

 

フィレンツェ空襲
フィレンツェは爆撃の対象としては考慮されていなかったが、イタリア戦線の戦局の変化によって連合軍側による爆撃を受けるようになった。フィレンツェ無防備都市と宣言していたにもかかわらず、1943年9月25日には初空襲を受けて2百人以上の市民が死亡した。結局フィレンツェ1944年9月に陥落するまで度々連合軍側による爆撃を受け、7百人以上の市民が死亡している。

 

ヴェネツィア空襲
ヴェネツィア重点的に爆撃対象となったのはメストレ工業地区やマルゲーラの造船工廠であるが、ヴェネツィア本島への爆撃も実行され、1944年8月14日にはサン・マルコ地区の市街地への空襲、1945年3月21日にはヴェネツィア港への空襲が行われた最も被害の大きかった爆撃は1944年3月28日の市街地への爆撃で、約2百人の市民が死亡し、約4百戸の家屋が全壊した。

 

カリャリ空襲
サルデーニャ島の中心都市であるカリャリは島内最大の港湾と、近郊に重要な空軍基地を擁したことから大戦序盤から連合軍側による爆撃対象となっている。イタリア側の防空体制により被害は最小限で済んでいたが、1943年初頭に北アフリカが陥落すると連合軍による激しい爆撃を受けるようになり、1943年9月に連合軍の上陸を受けて制圧されるまで、全建造物の75%が破壊された。死者数は約2千人以上に上り、4万人以上が家を失った

 

アンコーナ空襲
アドリア海の主要港であり、主要な造船工廠を擁したアンコーナは、連合軍のイタリア侵攻により上空が作戦行動範囲に入ったことで爆撃対象となった。1943年10月から1944年7月まで130回以上の空襲が実行され、全建造物の約70%が破壊されている。空襲の脅威から市民の多くは疎開しており、市民の死者数は約3千人と建造物の被害に対して少なく抑えられている。

 

■ピサ空襲
斜塔で有名なピサは交通の要衝であり、近郊に工業地帯を擁したことから連合軍の爆撃の対象となった。1943年8月31日には米軍機編隊による絨毯爆撃を受け、この1度の爆撃で約2千5百人の市民が死亡した。その後も度々連合軍による激しい爆撃を受け、1944年9月の陥落までに全建造物の半数が破壊され、死者数は計4千人以上となった。また、文化遺産の多くも空襲で焼失し、永遠に失われた。

 

リヴォルノ空襲
トスカーナの主要港であり、海軍施設や工業地帯を擁したリヴォルノ大戦序盤から連合軍による爆撃対象となった。その結果、ピサと共にトスカーナで特に甚大な被害を受けた都市となった。1944年7月の陥落まで爆撃が続けられ、死者は約千三百人で、市内中心部は2/3の建造物が全壊または甚大な被害を受けた。

 

ペスカーラ空襲
アドリア海の主要港の一つであったペスカーラは、イタリア戦線が開幕すると枢軸軍の重要な兵站基地として機能した。その結果、連合軍側による激しい爆撃を受けることとなった。連合軍側は駅を重点的に狙ったが、爆撃が不正確で都市の広範囲に爆弾が投下された。その結果、1944年6月に陥落するまでに都市の建造物の80%が破壊されるという甚大な被害を受け、約6千人が死亡した。

 

レッジョ・カラブリア空襲
メッシーナ海峡の本土側に位置するレッジョ・カラブリアはその戦略的に重要な位置の他、港湾や軍需施設などを擁していたことで、連合国はイタリア侵攻の橋頭保として確保するために重点的に爆撃を加えた。1943年1月から連合軍が同市を制圧する9月までに20回以上の爆撃が行われ、全建造物の70%が破壊される甚大な被害を受けた。死者は約4千人、負傷者は1万2千人以上に上った

 

フォッジャ空襲
フォッジャは交通の要衝と空軍基地が置かれていたため、イタリア本土侵攻を目論む連合軍によって爆撃の対象となった。北アフリカ陥落直後、1943年5月末に初空襲が行われて462人の死者を出した。その後も度々連合軍の空襲を受け、特に7月22日(7,643人が死亡)と8月19日(9,581人が死亡)の絨毯爆撃で多くの犠牲者を出した空襲による死者は2万人以上(人口の1/3)に上り、都市は完全に荒廃してゴーストタウンと化した

 

その他、ラ・スペツィアトリエステターラント、イゼルニア、グロッセート、アヴェッツァーノ、カターニア、ラ・マッダレーナ、ポテンツァ、パドヴァ、コゼンツァ、ザラ(現クロアチア領ザダル)などの都市が爆撃の甚大な被害を受けた。

あくまで今回は備忘録的な感じなので、機会があればちゃんと調べたいところである。


◇主要参考文献
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "Le Armi, I Protagonisti, Le Battaglie, Gli Eroismi Segreti Della Guerra Di Mussolini 1940-1943. Storia Illustrata", 1985, Mondadori
Gianni Rocca著 "I disperati: La tragedia dell'Aeronautica italiana nella Seconda Guerra Mondiale", 2015, Castelvecchi